懐かしのコンピュータの最近のブログ記事

久しぶりの、なつかしのコンピュータ。

高校生のころ、電気班(部活)に、なぜか5台もあったマイコンが

MZ80

です。
もうすでに20年以上前の記憶なので、うろ覚えなのですが、学校には、MZ80Cと、MZ80Kの2種類があったように覚えてます。

MZシリーズは、シャープが開発したマイコン。
シャープは、当時X系とMZ系の2系統のマイコン・パソコンを開発していました。
X系は、どちらかというと軟派系、MZ系は硬派系という印象でした。

そのMZ系の最初のマシンが、MZ80(だったと思います。間違っていたら指摘ください)

MZ-80K

MZがなぜ硬派か、というと、当時マイコンといえば電源を入れるとBASICが立ち上がるのが普通(NECのパソコン系)だったのですが、MZ80は、クリーンコンピュータという概念で、電源を入れても何も動きません。
BASICをやりたかったら、BASICの”カセットテープ”をロード。
CP/Mをやりたかったら、CP/Mの”カセットテープ”をロード。

というように、何かをしたかったら、必ずそれ用のカセットをロードしなければいけません。
このため、本体には最初からカセットテープローダーが付いています。

カセットテープからの起動だから、遅いこと遅いこと。
BASICを立ち上げるだけで、10分ぐらいかかったことを覚えてます。
#今のWindowsの立ち上がりが遅いぐらいでイライラしちゃいけませんね…。

でも、この待ち時間が「わくわく」する時間だったんですよね~。

プログラムをロードしている間、当時マイコンオタクのバイブルだった、”マイコンBASICマガジン”に載っているゲームや計算のプログラムを選んで、起動が完了したら、そのソースコードを打ち込んで動いたときの感動がすごかったんですよね。
そうやって、コンピュータって何か、とか、どうやったらコンピュータが動くのか、ということの基礎を学んだ気がします。

ちなみに、スペックは、

CPU:Z80 2MHz
RAM:32KByte
ディスプレイ内蔵:10inch白黒CRT
I/Oデバイス:カセットテープ

という代物で、なんせRAMが32Kbyteしか有りませんから、たいしたことはできませんでしたが、その制約の中で工夫するのも、そのころ覚えたなぁ。

そんな懐かしのMZ80の開発物語のblogを見つけたので、興味がある人はGo!。

MZ-80 パソコン開発物語

ソフトウェア業界今昔

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自分が、心底ほれ込んだコンピュータはMacintosh。
そのソフトウェアを開発していた、エルゴソフトウェアがパッケージビジネスからの撤退というニュースをみて驚きました。

「egword」のエルゴソフト、パッケージソフトから撤退

エルゴは、まだMacの日本語環境が稚拙だったころから、日本語環境を提供してくれ、EGWordというワープロ、EGBridgeというFEPの販売をしていました。
一太郎全盛の頃、EGWordの使いやすさ、安定感は抜群で、当時作った設計書/報告書類関係はほとんどEGWordを使って書いていました。
丁度そのときは、自分もMacのプログラマだったので、どうやったらこんな凄いアプリケーションが作れるのか、日々苦闘・苦悩してました。
(お客さんに、EGWordの画面を見せられて、「こんなこともできるんでしょ」って言われるのが辛くて…)

同じ日に偶然別のニュース。
T&Eソフトがドワンゴ傘下に

T&Eは、ハイドライドという名作のRPGを作っていたメーカーで、PC8801シリーズがゲーム機?として一世を風靡していたころに、ファルコムと並んで二台巨頭のゲームメーカーでした。
この頃、凄いプログラマーの話をたくさん読んで、ソフトウェア業界を目指したので、T&Eという会社の技術力には関心していて入社したいな、とおもっていたぐらいです。

20年近く前に一斉を風靡した会社が、こうやってだんだんと消えていってしまうのは、ちょっと寂しくおもうと同時に、会社の経営って難しいんだなぁとつくづくおもいました。
エルゴにしても、T&Eにしても、当時は莫大なキャッシュが手元にあったはずなのに、競争が激化し、ユーザーのニーズからだんだん離れ、更に必要な投資をしていないと、こうやって消えていってしまうということをまざまざと見せ付けられた感じです。

エルゴにしても、T&Eにしても、国内でも指折りの技術者が居たはずなのですが、そのような人達って今はどこにいるんでしょうかね。

ぴゅう太、というパソコンを皆さん御存知でしょうか。

おもちゃメーカーのトミーが、1982年に発売をしたパソコンです。
当時は、ゲーム機とパソコン(当時だとまだ、"マイコン"と読んでいた時代ですね)との垣根がなかったので、トミーのようにパソコンを発売する会社が何社かありました。

特徴としては、

・当時主流の8bitではなく、16bitのCPUを使っていた
・日本人には分かりやすい言語:日本語ベーシック(G-BASIC)
・16bitのCPUを使っているのに、脅威の値段(数万円)
・パソコンショップでなく、おもちゃ売り場で買う

などがあげられます。

やはり売りとして一番大きかったのは"日本語ベーシック"である、G-BASICです。

なんてったって文法がすべて日本語表記、"日本語で書くベーシック"なんです。

wikiから引用しますが、命令は

* GOTO ニイケ - 指定した行への移動
* GSUB ヲヨベ - 指定した行をサブルーチンとして実行
* FOR・・TO・・STEP・・NEXT マワレ・・カラ・・カンカク・・トジル - ループ実行
* PRNT カケ - 画面に表示
* GRUN ジッコウ - プログラム実行
* STOP トマレ - 止める
* END オワリ - 終了
* TONE NO1|NO2|NO3|NO4 オト イチオン|ニオン|サンオン|シオン - 効果音発声
* IF・・THEN モシ・・ナラバ - 判断
* LET シキ - 変数に値を代入

と、"日本語"で命令を書くのです。
#たしか、GRUNの"ジッコウ"は、"ハシレ"でも動いた記憶があるんですが記憶違いかな。

発想はよかったのでしょうが、他のメーカーが発売しているパソコンのベーシックとの互換性は取れるはずもなく、あっというまに消えていった名機(迷機)です。

友人が持っていて遊ばせてもらった記憶もあるのですが、面白いゲームもなく、使いにくい日本語ベーシックで遊ぶしかなかったので、欲しくもならなかったですね。
幼少のころからガジェット好きの自分が欲しくならないのだから相当貴重?なパソコンです。

当時は、このような独特なパソコン(マイコン)が世の中に生まれ始め、コンピュータが本格的に家庭に入りはじめた時代でした。

MZ2500は、MZ80以降続いたMZ系の最後に発売された、シャープの8ビットPC最終機です。
当時、このパソコンのスペックに、パソコン雑誌が躍起になっていたのを思い出しました。

8ビットのPCとしては、最高峰のグラフィック性能を誇っていました。
640x400ドットで16色
320x200ドットで16色x2ページ or 256色x1ページ

640x400で16色を使えるというのは、結構すごいことだった記憶があります。
#当時の名機であった、PC8801mkIISRですら、640×200dot / 512色中8色のアナログRGBが限界でしたからね。

あと、なぜかフロッピードライブ2つに、テープドライブもついていました。テープが何のためについていたのかはいまだに謎。
電話との接続ができるようになったころだったので、電話機もつなげることができました。

そんな、グラフィック性能が高いMZ2500に初めて出会ったのは、NTTのフェア。

当時、NTT(当時は日本電信電話公社でしたね)は、ニューメディアとしてPCを担ぎ始めたころ。
またキャプテンの展開に躍起になっていたころで、全国各所でニューメディアフェアと銘打って、キャプテンを中心にしたキャンペーンをやっていたのです。

その会場にいったときに、MZ2500に出会いました。

会場の片隅に、ぽつんとMZ2500はたたずんでいました。その画面には、ゼビウスが写っていました。今でも鮮明にそのときの風景が思い出せるほど、びっくりしたんだとおもいます。
当時、ゼビウスといえば、ゲームセンターで100円をいれなければいけないゲーム。それを、8ビットのパソコンでやれるということに本当に驚きを感じたのです。
操作をしてみても、アーケードのものとほとんど差なく使うことができました。

そんな、ゲーム用にも見えるスペックのMZ2500。

16ビットパソコンの登場と、ソフトウェアの少なさ(PC8801mkIISRの世の中の席巻度合いはすごかったですからね)から、すぐに消えていく運命だったのです。

MZを開発していたシャープの部署としては、一球入魂で開発をしたのだとおもいますが、世の中のニーズには合わなかったようです。

そうして、シャープは、MZ系の開発を終え、シャープのパソコンは、X6800シリーズへと昇華していったのです。

MZ1500

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1984年に、89,800円と手頃な価格で発売されたのが、MZ1500です。
名機MZ-700の後継機として発売されました。価格からもわかるように、シャープが、個人ユースをターゲットに作ったPCでした。

当時自分は中学生でした。当時、パソコン雑誌を買う小遣いもなく、友人が持ってきていたPC雑誌に掲載されていたMZ1500が輝かしく見えた記憶が鮮明にのこっています。

特徴はなんと言っても、

クイックディスク(wikipedoia)

フロッピーディスクのような形状をした、クイックディスクと呼ばれる円盤メディアを外部メディアとしてました。

このクリックディスク。ランダムアクセスができずに、シーケンシャルアクセスしかできないのです。

音楽メディアで言えば、レコードと、CDの関係に近いでしょうか。

当時、まだ記録メディアとしては、カセットテープが主流な時代だったので、QuickDiskで記録できるというのは画期的でした。特に、ロードの時間は劇的に早くなりました。そう、カセットテープで音楽を聞いて頭だしを苦労したことがある人であれば、CDに変わったときに頭だしの速さに感動したとおもいますが、その感動と同じものがありました。

しかし、問題点が1つ。

シーケンシャルアクセスしかできないので、最後尾にあるファイルしか削除できないのです。ですから、途中のを消しても、ディスクを再利用するためには、一度全部消さなければいけないという代物。

当時、まだ3.5inchのフロッピーが非常に高い時代。

エンジニアが、”安く”でも”使いやすい”メディアを考えに考え抜いた結果のものだったんでしょうね。正直なところ中途半端なメディアだとはおもいましたが、真に顧客のことを考えて作られたメディアだったのではないでしょうか。

そんなメディアを搭載した、MZ1500ですが、X1、X68000、MZ2500などのシャープのメジャー機種に飲み込まれ、大きなセールスを記録することなく消えていきました。

P.S.
メディアとしては、とても安価なものだったので、後に、今は無き任天堂のディスクシステムに使われていました。こちらの方が記憶がある人、多いのではないでしょうか。

FACOM M180

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FACOM M180

自分は、将来コンピュータ関係の仕事をしたかったので、高校から電気科を選びました。
#電気班なんていう怪しい部活があったのも、電気科があったからです。

電気科で主に使っていたコンピュータは、

FACOM M180
(機種名は記憶が曖昧・・・。リンク先のほどの構成でなく、最小構成のものでした)

主記憶装置は、ハードディスク。といっても、今の3.5inchや2.5inchの小型のものでなく、大きさが子供用の自転車の車輪ぐらいある大きなもの。今のハードディスクは密閉型ですが、当時のものは密閉型でなく、ディスク装置に固定するのにも六角レンチで固定をした記憶があります。相当高価なものだったので、学生にはなかなか触らせてもらえませんでした。
一応ハードディスクはありましたが、学生が作ったプログラムを保存するためには利用させてもらえず、保管用のプログラムはすべて紙テープへのコピーで対応してました。

入力装置は、紙(パンチ)カード。いまや、入力装置はキーボードというのが当たり前ですが、当時は学生分コンソールを準備することなど費用が高くできませんから、生徒はパンチカードでプログラミングをしていました。

出力装置は、プリンターのみ。そもそも、JCLを走らせるための端末しか端末は無かったので、結果はすべてラインプリンターからの出力のみ。

FOCOMで学んだ言語はFORTRAN。当時は、言語が目的別に作られている時代で、FORTRANは科学技術計算向きの言語と呼ばれていました。電気科ですから様々な電気関係の計算をFACOMを使って行った計算しレポートを作った記憶があります。

パンチカードのプログラミング、といわれても若い人にはイメージも付かないことでしょう(って、若い人っていう表現がいやなんですけどね・・・)

パンチカードとはこれです。宝くじのナンバーズのようなものですね。

パンチカードは、一枚がプログラム一行相当になっています。
マークシートになっていて、横に40桁(だったかな?記憶が曖昧)の文字をマークできます。縦軸に0・・9(これも記憶が曖昧)マークする矩形があって、たとえば、”A”という文字を確か”3”と”0”をマークすればよかったとおもいます。慣れてくると、Aは、どの数字の組み合わせだったかを覚えるので、対応表を見なくてもマークをしていけるようになりました。

パンチカードの特徴は、一行が一枚のカードなので、たとえば100行のプログラムを作ったら100枚のパンチカードになります。大作になると、500枚とか1000枚のパンチカードになります。データもパンチカードからの入力なので、データが多いプログラムなどは、数千枚のカードを入れる必要があります。大変なのはカードの持ち歩き。教室でプログラミング(といっても、マークカードのマークをして)、電算室に持っていくまでの廊下で何回もカードをぶちまけた経験があります(当時から落ち着きがなかったのですね・・・)。
ぶちまけると大変なのは、カードの並びがばらばらになってしまうこと。半泣きになりながらカードの並びをあわせた記憶があります(後に、カードを束にして横に斜線を引くことによって、並びがばらばらになっても戻しやすくする、という工夫を思いついたりしました)

パンチカードは一枚一行で大量になってしまうので、数千枚のカードを使うようなものは、その後穿孔機を使って紙テープにコピーをしました。これが紙テープ。

紙テープは、昔の人であればわかるとおもいますが、上図のように、宇宙戦艦ヤマトで出てきた紙テープに、穴が開いているもので、これをコンピュータが読み込んだのです。
紙テープもパンチカードも基本的な考えは一緒で、紙テープの横一列がパンチカードの縦一列に相当しています。慣れてくると、紙テープを蛍光灯に透かして、”目”でソースを確認し紙テープを見るだけでデバックなんかをしてました。

この当時の大型コンピュータの良かったところは、記憶装置・出力装置・入力装置・主処理装置が目に見えたこと。実際に目に見える巨大な其々の装置が目の前にあるので、自分の作ったプログラムがどこで処理をされていて、どこに出てくるのかが分かりやすいんですよね。今のコンピュータは、すべての機能が小さな筐体に入れられているので、この”実体験”がやりにくいですよね。実体験をしているからこそ、”コンピュータって何”っていうとてもベーシックな部分が理解できたんだとおもいます。

当時は、”いまさらこんなデカイコンピュータで勉強するの”といやいやだったのが正直なので(同じ時期には、既にPC9801,8801などが登場していた頃ですから)すが、今振り返って考えてみると、とても貴重な経験をしていたということなんでしょうね。

最近、人生何事においても、無駄なことは無いなぁと思うことが多いのですが、この出来事もその1つですね。

Mac SE

最初の出会いは、自分が高校生の頃愛読していた
「Log in」(現、週刊アスキー)
での、海外事情紹介ページの小さいコマ記事。

5cm*3cmぐらいの小さな記事でしたが、USですごいPCが発売された!と記事になっていました。
値段は、80万円ぐらいで紹介されていた記憶があります。

自分が高校生の頃、日本のPCは、NECの寡占状態。PC9801,8801,6601と、ビジネスユースから、家庭用まで幅広くシリーズ展開していたNECにかなうメーカーはありませんでした。
とはいっても、NECのPCは、あくまでもDOSベース。

まだWindowsが登場する前ですから、もちろん画面はすべて「CUI」

DOSのコマンドを覚えなければいけないし、config.sysやautoexec.batの書き方を知らないとPCが使えないという時代。まだ普通の人には、とてもハードルの高いPCでした。

日本に住んで日本に生まれ生粋の日本人としては、この「CUI」文化が当たり前だっただけに、「GUI」で画面の処理ができるということに、最初は理解ができませんでした。

また、今でこそ当たり前の”マウス”という道具も、当時はあくまでも”オプション”、もしくは不要。
画面はあくまでもカーソルキーで操作するものでしたから、マウスオペレーションが普通、という、そのUS製のPCは、たった5cm*3cmぐらいの小さな記事でも、自分が与えられた衝撃は非常に大きかった記憶があります。

普通の記事であれば、流し見している程度でしょうから記憶になど残りませんが、この記事のことは、今でもページの構成すら覚えているぐらいですから、相当衝撃的だったのでしょう。

そんなMacSEの本物に出会ったのは、28歳の頃。

会社の整理をしていると、部屋の片隅に、

”チョコン”

と置かれて埃がかぶっている白い筐体を発見。

「なんだこれ?」

と思って、引き出してみると、それは、自分が高校生の頃恋焦がれた、MacSEだったのです。
まさか、会社のこんな片隅で彼に出会うとは想像すらしていなかったので、

”昔片思いだった人に、10年ぶりに会った”

という感じだったのも今も鮮明に覚えています。

さて、このMacSE。

会社の片隅にあったぐらいですから、既に使われていないもの。減価償却も終わっているとのことだったので、上司に許可をもらって、自宅にもらってきました。当時80万を超える金額のものが、”只”で手に入るということも、高校生の頃は考えもしなかったですね。

家に来たMacSE。

CPUは、モトローラの68000。
メモリはー、拡張済みで4メガバイト。日本語OSが載る最低限のスペック。
ハードディスクは記憶が無いのですが、20メガ程度だったと思います。
拡張用にSCSIカードが付いていたので(さすが会社で買っただけあって贅沢仕様)、CD-ROMを使うことができ、色々なソフトを入れることができました。

自宅の机の上。最も目立つ場所においてあげました。
OSが古かったので、漢字Talk7を入れてあげ、日本語環境を整備してあげると、そこそこ使い物になる感じ。

自宅の隅っこに眠っていた古い2400bpsのモデムを引き出して、Mac SEにつけてあげ、Niftyserveの専用PCとしてしばらくの間活躍してもらいました。
さすがにスピードが遅かったので、メインでは使えなかったですけどね。

そんなMacSEは、自分が仕事も忙しくなり、MacSEにかまっていられなくなりしばらく放置していたら、起動しなくなってしまったのです。色も、発売当時のクリーム色から、明らかに真黄色にし、そろそろ自分の末期をしめしているようでした。

引越しを期に、MacSEとはお別れをしましたが、これほどの”感動”を与えてくれたPCは、最初にも最後にもこれ一台です。

MacSEは、自分をコンピュータ業界に引きずりこんだ張本人かもしれません。

TK80

このコンピュータは、今で言う「パソコン」のレベルには到底到達していなく、”マイコン”(マイクロコンピューター)と呼ばれていました。
#パソコンという呼び名が出たのは、PC8001が出た頃からでしょうか。詳しい方教えてください!

CPUは、Z80互換、メモリーは1kbyte。

自分が過去に触ったことのあるコンピュータの中で最もロースペックの”コンピュータ”です。

”コンパイラ”という便利な物が登場するまでの間、コンピュータに処理を”してもらう”ためには、人間がコンピュータが分かる”言葉”を話さなければいけませんでした。

コンピュータが分かる言葉は、その名の通り”マシン語”。
マシン語を人間がわかるようにしたものが、”アセンブリ言語”。

アセンブリ言語は、アセンブラによって16進数のマシン語に変換されるますが、当時は、”人間アセンブラ”になって、マシン語でプログラミングできる人も多く存在しました。
自分も、そのままプログラミングはできませんでしたが、Z80のニーモニックは暗記していました。

もちろん、TK80は、”コンパイラ”などは実装していませんから、人間が”ハンドアセンブル”をして、ダイレクトに”マシン語”を入力していく必要がありました。TK80パンフレットの右下にある16進キーボードから、
メモリー中のアドレス指定をしながらダイレクトに機械語を入れてくのです。

このコンピュータ。
表示装置は、8セグメントLEDの8桁の表示装置しか出力装置のみ。

テレビなどもちろん接続はできず、この小さな出力装置に、色々な線を出したりして、簡単な数当てゲームや、LEDアート(蛇のようにLEDを表示させるとか)を作っていました。

TK80を使いこなして色々工夫をして色々なソフトウェアを作った経験が有ってよかったなぁと思うのは、コンピュータがどのような動きをしているかを”理解”できる力を持てたこと。

アセンブラを知っているということは、コンピュータが理解できる”言葉”を知っているということ。コンピュータのメモリー空間の使い方から、どのように処理を行い画面にはどのように表示を行っているかを、”肌”で分かることができたことです。

JavaやVisualBasicからコンピュータの世界に入った人は、実際どのようにコンピュータが動いているかが分かっていない人が多いと思いますが、この時代からコンピュータの世界に入った人たちは、ココが分かっていることが、”今の人”との大きな違いだとおもいます。

これが分かっているか分かっていないかは、今システム開発をするにも、ディテールまで意識した設計ができるか、適当な設計になったシステムになってしまうか、という部分で差が出てくるのではないかなぁと思っています。

当時のたった、”1kbye"のメモリー空間が、”無限”に感じられた時代を懐かしく思います。

皆さん、初めて買ったハードディスクって、どのぐらいのサイズでした?

先日、同僚とそんな話になりました。

今のパソコンは、ハードディスクが内蔵されていますが、私がハードディスクを始めて買った頃(約15年前)は、ハードディスクは超高価なオプションでした。

ちなみに自分が買った始めてのハードディスクは、

40メガバイト[:びっくり:]

ギガじゃないですよ。メガです。
当時、その40メガバイトのハードディスクが

7万円[:びっくり:]

したのを今でもはっきり覚えています。当時、自分のメインPCは、PC9801ESという機種で、それに接続できる数少ないサードパーティのハードディスクの中から最も安い(といっても7万円)を、雑誌をくまなく探して八王子に有ったPCショップで買いました。

今はUSBとかSCSIという規格が主流ですが、当時のPC9801は特殊アーキテクチャでしたから、SASIという規格の接続が必要で、これが設定がメンドクサイ。何度も思考錯誤をしてやっと接続できたときの感動は今でもはっきり覚えています。

それまで、PCはフロッピーで使うものでしたから、ソフトの切り替えは、フロッピーの出し入れが必要でした。これが、ハードディスクを導入すると、出し入れが不要になり、DOSのコマンドから自由にアプリを立ち上げられるようになったのは、本当に感動でした。

そんな貴重な思い出がたくさん詰まっているハードディスクは、捨てることが出来ずに、まだ実家の自分の部屋のPCデスクに、旧愛機PC9801ESと一緒に鎮座しております。

そんなことを書いてあるコラムを見つけました。
自分の物欲師匠である、スタパ斉藤氏のコラム

初めてのハードディスク・ドライブ

コンピュータ歴が長い人は、誰も同じ経験をしているのですね。

OKI if800

僕が高校で「電気班」という怪しい部活をしていたのは、前回のブログで書かせてもらいました。

その部活の部室にあった、最も古いコンピュータが

OKI if800

です。
多分、存在すらも知らない人が多いでしょう。

多分1980年ごろに発売されたコンピュータだと思います。今から数えれば26年前ですね。
其のPCのスペックを簡単に
 CPU Z80A
 クロックスピード 5MHz
 RAM 64KB
 解像度 640x400 / 640x200

筐体はこんな形でした。
#当時の部室に有ったのは、モノクロ機&8インチFDDでした。

当時の部室では、MZ80がゲーム専用機(って、部活でゲームやっているのも問題ですが・・)として大活躍。

このため、部屋の隅っこに追いやられたif800は、いつも空席&電源すら入れられず置き去りになっていました。

このため、BASICのプログラムのコードを書いてみたいときに、MZ80が空いていなければ、if800の電源をあげて仕方なく使うという使い方でした。if800はマイナー機種だったので、当時一世を風靡していたパソコン雑誌「マイコンベーシックマガジン(略してベーマガ)」にもif800用のベーシックソースは載っていなく、他のパソコン用のソースを自分で書き換えて色々なソースを作った記憶があります。

このif800というコンピュータ。

当時としては、画期的な
 CRT+フロッピードライブ(2ドライブ)+プリンタ
の一体型なのです。(写真見れば分かりますね)

CRTとフロッピーが同一筐体のPCは、過去にもありましたが、プリンターも一体型になっているPCは、if800が初めてではないでしょうか。プリンターも、今からは想像が付かないとおもいますが、16dot程度のドットインパクトプリンター。この程度の解像度のプリンターなので、文字がギザギザなのは、仕方のないこと。

学校にあったPCなので、いくらぐらいしたのかは想像も付きませんが、当時は相当高かったことが考えられます。プリンターも付いているということは、個人ユースでなく、明らかにビジネスユースをターゲットにしたPCとおもいます(当時ビジネスユースのニーズがどれだけあったのか、かなり疑問ですが・・)

当時は、

「なんでこんな古いコンピュータしかないの!![:悲しい:]」

とかなり不満ではありましたが、こういった個人では買えないコンピュータを使って基礎を学べたことが、自分がコンピュータに興味を持ち始め、コンピュータにのめり込んでいったのとつながっているのでしょう。

そういった意味では、「自分を鍛えてくれたコンピュータ」であるのは間違いありません。

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